ヘーゲル大論理学 本質論 解題(第三篇 第三章 絶対的相関)

 第二篇(現象)の締め括りは、実存と本質の統一を通じて物体と物自体の本質的相関を力の外面と内面の統一として示すものであった。しかしこの第三篇では、その統一の反省が現実と可能の対立として再燃する。それゆえに両者の分断は、再び実存と本質の統一を通じて現実と可能の絶対的相関として示される必要がある。しかしそれは力の外面と内面のように反省の中に留まるのを許さない統一である。なぜなら絶対的可能が過去であるなら、その絶対的現実は現在であり、さらにその絶対的可能は未来だからである。そして逆に絶対的現実が過去であるなら、その絶対的可能は現在であり、さらにその絶対的現実は未来とならねばいけない。ただしそれらの時間的分断は、カント式の超越不可能な分断ではないし、スピノザ式の超越不要の無時間的な分断でもない。現実と可能の相関が示すのは、原因と結果の間の相関である。それは物体と物自体の相関と同様に、人間の一瞬一瞬の行為の中で分断が克服されている相関である。そしてその相関を示すことが、ヘーゲルによるカント不可知論批判の完遂になっている。この完遂は認識の悪無限の克服に等しいが、ヘーゲルにおいてそれは対象の概念の実現に等しい。ただし概念はカント式物自体ではなく、プラトンイデアでさえない。なぜならヘーゲルにおいて概念は因果と無縁な静的実体ではなく、因果相関を含む実体だからである。むしろ端的に言えば、概念とは因果そのものである。因果と無縁な静的実体は空虚な本質に留まり、抽象的現実としてそれ自身が矛盾である。

 

[第二巻本質論 第三篇「現実性」の第三章「絶対的相関」の概要]

 力の内面と外面が一致する現実の可能との対立から、さらに現実と可能および偶然と必然の諸概念を導出し、現実の生成を説明する論述部位

・印象(仮象) …Schein。反省において絶対者が現す存在の直接的区別。または区別として現れた絶対者。(重々しげだが、ただの直接的存在)

・絶対的相関  …実体と偶有の相関として現れる印象における直接的生成と消滅。存在と反省が統一した偶有。(単なる現実的混沌)

・偶有の必然  …反省において反転する二つの印象の自己否定の即自存在として現れる現実的存在。(恒常的自己の擁立。絶対者における単なる時間推移。)

・偶有の形式  …直接的存在ではなく、その変転。そして変転における創造と破壊の力の啓示。

・実体     …偶有とも印象とも区別される力としての媒介者。必然そのもの。

・実体の自己  …偶有と印象の相互反転する成として存在する反省。対自態となった即自態の偶有。

・実体の自己自身…存在する反省としての実体の自己に対峙する単に自己同一な即自態の偶有。

・原因     …自己限定する直接的実体を生成において擁立し、それを開示する実体の力としての啓示。

・結果     …原因に擁立されたものとして開示された偶有。(すなわち結果から原因が擁立され、その擁立関係の逆転弁証法を開示と呼んでいる。)

・形式的因果  …原因としての力の啓示が結果の中に消失する無限定な因果相関。(単なる物理的因果連繋)

・限定する因果 …形式的因果の因果の外面と内面の分裂、すなわち物理と反省の分裂がもたらす形式的因果の否定に現れる因果の自己限定。

・概念     …自己原因となった自由で偶然な実体において因果の外面と内面が一致した自己反省。必然の消滅した偶然ではなく、因果の内的同一の啓示。

・普遍     …自己同一な受動的実体であり、自己自身が含む擁立された限定存在において自己同一に擁立された全体者。

・個別     …自己否定する作用実体であり、限定を否定で限定する自己同一な自己反省としての全体者。

・特殊     …個別と普遍の単純な同一が、擁立された限定存在として外化した自己同一な自己反省。

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1)因果と概念

 

 絶対的必然は、反省の存在そのものであり、自己自身と自己の絶対的相関である。その区別される両項は、例えば実存と本質、または過去と現在のように、属性ではなく完全な全体を区別する。その区別は開示の印象(仮象)Scheinであり、したがって絶対者そのものの印象である。それだからこそ区別された本質は、存在する反省または現出であった。しかし絶対的相関における本質は、印象としての印象であり、自己関係としての絶対的現実である。それは外的反省が開示した絶対者による、絶対的形式または必然として自己を擁立する自己開示である。すなわち本質は絶対者による絶対者としての絶対者自身の印象であり、顕示Manifestationである。それゆえにこの絶対的相関の直接的概念は、実体と偶有の相関として現れる。すなわちそれは印象における直接的生成と消滅である。そしてその実在的相関が因果である。それは他者に対する実体の対自の自己限定である。そしてこの因果が自己関係的な交互作用に推移すると、今度は絶対的相関が因果限定の両面から擁立される。そこでは、因果規定の両面が全体者として擁立されるとともに二つの限定として擁立される。この二つの限定における絶対的相関の擁立された統一が概念Begriffである。

 

 

2)偶有の必然化

 

 絶対的相関は自己の自己自身との絶対的媒介としての実体である。それはスピノザ式の無反省の直接者でもなく、カント式の実存と現象の背後的実体でもない。それは存在と反省の統一であり、それらの印象として擁立される全体であり、そして偶有である。この印象は、二者の形式の同一である。その二者の同一は、まず可能と現実が統一した成として現れる。それは生起と消滅の偶然であり、自己の他者への直接的反転である。端的に言えばそれは存在と無の相互反転である。しかし形式の同一が印象であるなら、存在も無も印象である。したがって存在と無の相互反転は、印象同士の反転である。そしてその反転の二者関係は、一方が他方の反省である。すなわち存在の反省が無であり、無の反省が存在である。いずれにせよ一方が反転した他方は、もとの一方にとっての存在する反省である。そしてその反省した他方にとって、もとの一方は印象である。ただしこの反転と印象の成立には、二者の質的差異が必要である。しかし反転する二者はともに相互の質的差異に無関心なので、対立していない。すなわち両者はともに存在である。そこでヘーゲルは二者に対立の魂を吹き込む。対立とは両者相互の質的限定である。そしてこの質的限定は、限定の根拠であるもとの一方、すなわち無に還帰する。ただしここでの無は、反転した他方の反転する前の自己への反省である。それゆえにここでのさらなる反転は、反転した他方の自己を無にする。すなわち自己反省は、自己を廃棄する。しかしその自己否定においても、その自己反省は偶有の可能性として即自存在する。この即自存在はそれ自身が必然であり、したがって現実的存在である。

 

 

3)実体における偶有の変転

 

 実体は自己に対してのみ活動する。その前提する自己の廃棄は、消滅する印象である。しかしその直接的存在の廃棄が、自己の直接的存在を生成する。そしてこの生成が、消滅した印象を開始の自己として擁立する。実体はこのような印象の同一として全体者の全体である。実体の印象は、存在の無限定な同一と諸々の偶有の変転の区別を形式とする。ただし前者の無限定な同一は印象ではなく、表象に現れる無形式な実体である。それは偶有に属する直接的現実であるか、即自存在または可能の限定である。これに対して後者の偶有の変転は、偶有の絶対的な形式統一である。それは実体を絶対的な力として表現する。まず偶有の消滅では、現実態の偶有がその即自存在の偶有、すなわち可能態の偶有に還帰する。しかしその可能態は擁立された存在なので、やはり限定された現実態である。そこでその変転は、可能を現実にする創造力としての実体を啓示し、同時に現実を可能にする破壊力としての実体を啓示する。しかし創造は破壊でもあり、破壊は創造でもある。それらの否定性と積極性、および可能と現実は、実体の必然の中で絶対的に合一する。諸々の偶有は相互に作用しない。それが作用するように見えるのは実体の力による。実体はそれらの偶有を自己に包容し、その否定的力により一方を消滅させ、他方を生成する。したがって実体は自己を形式と内容の区別に分割し、そしてその区別の一面性を統一して自己に純化する。その分割と統一の繰り返しでは、一方の偶有が形式と内容の全体となり、他方の偶有を放逐する。しかしその全体となった偶有も、他方の偶有の放逐により実体の全体の中で没落する。

 

 

4)自己自身としての偶有

 

 上記における実体の自己は、自己自身としての偶有と区別されていない。したがってこの実体における存在と無も区別されていない。偶有と区別されるべき実体の自己は、力としての媒介者である。そしてその力としての実体が、必然である。それは偶有の否定における実体の積極的存続であり、偶有の存立における擁立された実体と偶有の統一である。このような力の擁立から言えば、実体と偶有は自立しない力の両項である。しかもその実体は、力の自己の自己自身との直接的統一としての同一のままにある。そしてその同一に対して言えば、偶有が持つ否定と区別は、契機として消滅する単なる相関である。ここでの印象と偶有は、実体の即自態にすぎない。それは自己を形式的な力として啓示するだけの実体である。またその印象は、まだ自己同一な印象ではない。同様に実体と偶有の相関も、実体と偶有、すなわち存在と無が相互反転するだけの成としての印象の全体に留まる。このような実体と偶有は、単に相手に対して現れるだけの自立しない存在である。とは言えその全体としての成は、存在する反省である。したがってそこに現れる実体の即自態の偶有は、対自態として擁立される。それにより即自態の偶有は、対自態としての自己に対峙する自己自身となる。この実体の自己に対立する自己自身は、単純な自己同一として限定される。しかしそれは即自態の実体でありながら、自己に対峙する勢力的な実体である。そこで実体と偶有の相関は、二つの実体の因果相関に移行する。

 

 

5)原因としての自己

 

 実体は力としての印象であり、偶有である。それは自己に反省した力であり、諸限定を擁立し、それを自己から区別する。すなわち実体が印象の働きを印象として限定する。ただしその自己が否定し擁立する偶有は、他者ではなく自己自身である。力としての実体の自己限定は、そのまま自己限定を廃棄して自己に復帰する。ここでの自己限定する実体は直接的存在なので、既に限定された存在である。しかし実体はこの限定する既に限定された存在を、ただ限定された存在として擁立することで廃棄し、自己に復帰する。それゆえに限定する既に限定された存在は、別に既に限定されていたわけではない。それは自己の自己復帰において初めて生ずる。この即自存在する偶有を生成において開示する実体の力が、啓示である。それは偶有を擁立された存在として擁立するものとして原因である。そして擁立された偶有は、結果である。結果は実体の自己同一であり、原因は結果においてのみ自己を顕示し、また反省する。ここで擁立される実体の自己の即自存在は自己自身であり、その自己自身を擁立して対峙する自己は対自存在である。したがって自己自身は結果であり、自己は原因である。因果相関はさしあたりこの自己と自己自身の形式的相関である。

 

 

6)形式的因果

 

 根源的実体は、他者に擁立されない自己復帰の力である。それは、自己反省におけるただ限定された存在と対立する。またそれがそのような即自存在として原因なので、実体は現実である。しかし反省された根源的実体は、自己復帰の力として限定された結果である。したがって実体は、原因のもつ現実を結果においてのみ持つ。これが因果の表わす必然である。その必然では、作用実体としての原因が、作用実体として自己を限定し、その自己限定を結果として擁立する。ここでの結果は原因の他者であり、原因としての根源的実体に擁立された偶有である。しかしその原因の必然は、自己を廃棄して媒介となる。一方で結果は、原因の自己同一として擁立されている。それゆえに原因は、結果の中で初めて現実な自己同一となる。それだからこそ結果も、原因の啓示として必然である。原因は結果の中に無い物を含まず、結果は原因に含まれていない者を含まない。そして原因は、結果する限りでのみ原因である。また結果は、原因を持つ限りでのみ結果である。それゆえに原因が消滅するなら、結果は結果ではなく、それは原因に無関心な現実となる。したがって結果の中に消失した因果は、一つの直接性である。その結果は因果相関に無関心であり、その因果相関を外的に持つ。

 

 

7)因果の偶然と必然

 

 結果における原因の自己同一は、その力と否定を廃棄しており、因果形式に無関心な内容である。その内容は即自的に因果形式に関係するだけである。したがって内容と因果形式は差異するものとして擁立されている。ここでの因果形式は内容と対立しており、直接的な現実形式、すなわち偶然な因果として現れる。その原因と結果はそれぞれ内容を限定された他者である。それゆえに結果は、直接的現実として限定された有限な実体として現れる。例えば画家は絵の原因であるが、自立した実体としての絵にとって、絵に無関係な画家の性質は無関係である。逆に絵に関係する画家の性質は、そのまま自立した実体としての絵に体現されている。このような因果相関は、実在と有限者の因果相関である。先の形式的因果は力の無限定な因果相関であり、その力の内容は純粋な啓示または必然であった。しかし実在と有限者の因果相関は、唯一実体の外面に現れる区別の形態をとる。その因果相関は、内容の同一な分析命題である。すなわち同じ事物が一方で原因であり、他方で結果である。その分析は事物の本性から言えば、主観的悟性の同語反復である。例えば雨が原因で湿気が結果し、湿気が原因で雨が結果する。しかし水にとって雨も湿気も外面的限定にすぎない。ただしこの因果相関が抱える問題は、むしろ諸々の外面的限定の完全な非同一の可能性にある。すなわちそれは、雨と湿気が本当に無関係である可能性である。このことのさらなる例えは、或る不幸な出来事が、その不幸な人を結果的に幸福にする場合である。しかしその不幸と幸福に因果は無く、そのような不幸は幸福の単なる契機にすぎない。したがってアランの期待に反し、不幸な出来事は、やはり人をただ不幸にする。いずれにせよ因果相関において結果が含む原因は、根源的実体の原因より小さい。結果が持つ原因に比べて広い外郭は、結果が含む他の原因の要素と偶然がもたらしている。

 

 

8)因果の悪無限

 

 因果相関は、結果における原因の自己同一である。しかし一方で因果相関における諸々の外面的限定の非同一は、内容と因果形式の非同一である。それは原因と結果の内容的非同一でもある。その内容の差異は、因果相関に入り込むことができない。ところがその因果相関に無関係な外面的内容は直接的実存であり、原因と結果の即自存在において同一である。それは原因と結果の存在的同一であり、すなわち物体の同一である。それゆえに因果相関では同じ一つの物体が、原因と結果に形式分裂している。この物体は、因果相関の自己同一な基体であり、したがって実体である。ただしそれは直接的現実として擁立された有限実体である。それは原因としての自己を否定し、結果としての自己に復帰する。それゆえにその自己復帰は、因果一般を廃棄する。その自己にとって因果は外的である。すなわち物体にとって因果は、他者に擁立された存在にすぎない。それゆえにこの物体にとって外的な因果を、物体の自己同一に結合すると原因と結果の無限連繋が形成される。この無限連繋において結果が原因として現れるのは、もともと原因が擁立された限定存在だからである。すなわち原因は既に結果だからである。そしてこの原因と結果の存在的同一が、両者を無限連繋させる。その無限連繋は、原因を辿ると他者に行き着く。したがって最初の原因とそれに続く原因は区別される。しかしその他者もまた因果の無限連繋の中にいる。この無限連繋は、自己にとって外的な因果に対する有限者の無力を表現する。

 

 

9)因果の内面化

 

 結果において形式的因果が消滅すると、その結果は原因と存在的に同一な即自存在となる。そしてそのような結果における原因の消滅、または原因における結果の消滅は、その即自存在にとって因果形式を外的にする。それゆえにその即自存在は、因果形式を外的にもつ内容である。しかし即自存在における外的な因果形式は、自己自身を自己にとって外的にする。それゆえに即自存在は、自己と存在的に同一な原因を自己の外にもつ矛盾に立たされる。それが現すのは、自己同一な原因と外的原因の差異である。しかし実際には自己において自己自身は生成しており、自己自身において自己は生成する。したがって結果における原因の消滅、または原因における結果の消滅も、それぞれが原因の再生、または結果の再生になっている。すなわち即自存在における因果の外面的移行は、因果自身の擁立になっている。このような因果は自己自身を前提にしており、その自己自身により自己を制約する。したがって自己同一な即自存在は前提にすぎず、それは作用する因果に対立している。またそのようなものとして即自存在は擁立されている。自己同一な即自存在にとって外的な因果は、即自存在にとって反省を外的にしていた。しかし即自存在にとって因果が外的でないのなら、反省もまた外的ではない。反省は存在の因果相関の中にある。

 

 

10)限定する因果

 

 因果は前提作用である。そのような因果が前提する因果は、因果を外面的他者として否定する因果である。したがってそれが否定する因果は、自己同一に即自存在する有限実体である。それゆえに限定する因果は、形式的因果の否定者として自己を限定する。ところが限定する因果において外面的他者は、限定する因果自身である。その自己同一に即自存在する有限実体は、今度は偶有の力による実体的作用を受けなければいけない。なぜなら抽象的に自己同一な即自存在は、作用を受け入れるだけの純粋存在、または本質だからである。当然ながらこの受動的実体に対する作用実体は、原因である。それは因果において外面的他者として前提されたものである。ただしそれは、限定する因果において自己否定を通じて結果から再生した原因の反省態である。したがってこの原因は有限実体と違い、基体をもたない。それは、受動的実体としての自己に作用する自己否定的な力である。それは他者としての限定する因果自身の外面性を廃棄し、限定する因果を自己に復帰する。したがってこの原因は、有限実体を限定し、その外的自己の廃棄と自己復帰を一つの限定として擁立する。それゆえにこの擁立された限定は、原因の結果である。原因は有限実体の他者なので、原因はこの擁立された限定を受動的な有限実体の中に擁立する。そのように受動的実体と作用実体の同一は、結果において実体に対して外面的に生起する。一方でその作用実体の強制力は、実体が自己自身を廃棄されたものとして擁立する限りでのみ外面的である。逆にそうでないのなら、その強制力は内面的である。実体の受動は、単に擁立されただけの自立性にすぎない。それは単なる可能にすぎない現実としての即自存在である。したがって強制力は、他者としての自己に対してのみ成立する。また受動的実体も、強制力を通じてのみ受動的実体として擁立される。受動的実体がもつ前提的性格は、前提としての原因と異なる印象である。その印象を剥ぎ取るのは、原因としての作用実体の強制力である。ただし受動は自己を自己自身と同一にし、自己を根源的な原因とする。したがって受動的実体にとって、他者に擁立されることと自己自身の生成は同じ一つの事柄である。

 

 

11)因果の自己復帰

 

 作用結果として現れる受動的実体は、次の作用原因へと転倒する。このとき最初に起きるのは、受動的実体における作用実体が及ぼす作用の廃棄である。その廃棄では、まず受動的実体の他者である作用実体が、受動的実体の中に自己の即自存在を擁立する、しかしその擁立は、受動的実体による自己の即自存在の擁立でもある。またそうであるからこそ受動的実体は、他実体の即自存在を受け入れる。そしてこの受動的実体による即自存在の擁立が、受動的実体を原因たらしめる。これに続いて次に起きるのは、原因となる作用実体における作用実体としての自己の廃棄である。原因となる作用実体が作用実体であるのは、受動的実体が作用結果である限りである。受動的実体が作用結果としての自己を廃棄し、自立した原因となってしまえば、原因としての元の作用実体も既に作用実体ではない。この廃棄は原因としての作用自身が結果となった時点に始まり、受動的実体が作用実体として原因になることで完結する。なおこの受動的実体の作用実体化は、受動的実体への元の作用実体にあった力の転移のようなものである。またそのような力の転移であるからこそ、因果の無限連携が起きる。一般の勘違いに受動的実体における反作用を、受動的実体における作用実体に対する反発や憤激の如く捉える擬人化がある。しかし実際は受動的実体に転移した力が、因果関係の逆転により、たまたま元の作用実体に向かって作用しているだけである。すなわちその反作用は、因果の無限連携の一バージョンにすぎない。ただしそれは受動的実体を媒介にした作用実体の自己作用とも捉えられる因果連携になっている。そこでの作用は自己に復帰する交互作用であり、悪無限を脱している。

 

 

12)自己原因

 

 作用実体の原因は、結果の受動的実体の中に転移する。因果の機械的説明だと結果における原因は、そのまま受動的実体の中で作用実体の外面として留まり、作用実体に対して疎遠に反発する。ここでの結果は作用実体にとって外面にあり、端的に言えば作用実体にとって未知である。しかし原因が受動的実体を経由して作用実体に結果として復帰する交互作用の場合、作用実体にとって結果は外面ではない。しかも作用実体と受動的実体は、それぞれ能動でも受動でもあり、そのような区別は印象として廃棄される。ただしこの実体の反省は、まだ相手の媒介が必要な空虚な形式を留めている。言うなればそれは、未完成な愛である。とは言えここでの二者は、相互関係にいることで互いに基体ではなく、実体として対峙し合っている。それは前提していた直接的存在を廃棄しているので、ここでの原因の能動を制約するのは作用自身であり、他の根源的実体ではない。したがって原因の受動を構成するのは、原因自身である。この原因は単に結果をもつのではなく、結果において原因としての自己自身に関係している。

 

 

13)因果の外化

 

 最初の因果は、絶対的に自己同一な実在的必然であった。しかしその絶対的同一は、複数の限定や実体や現実が相互に対立する相対的必然であった。それゆえに次に因果は、それらの内的同一の啓示として現れた。この因果により実体的他在の印象は廃棄され、必然は自由に転化する。根源的因果の無から存在への成は、自己否定において他者に移行し、原因の無を消滅させる。しかしこの成はただの印象である。なぜなら他者への移行は自己反省であり、原因の根拠に現れた自己否定は、実は原因の無自身との積極的合致だからである。このような交互作用は、必然と因果を消滅させる。その二つは直接的同一と絶対的偶然を含む。しかしそれは、存在が自己を根拠にもつゆえに無である矛盾である。すなわち存在は印象であり、ただの関係や媒介にすぎない。ところが因果は、それでも原因の印象を擁立する。それは単なる擁立された存在を自らの根源に導く。ただしその存在と印象の同一は、内的必然に留まる。その恣意の即自存在は因果を廃棄し、因果相関の両端に現れた原因と結果、および存在と印象の実体性を消失させる。そしてそれにより恣意の内的必然が外面に現れてくる。このような因果の内面と外面の同一により偶然は自由となる。それは必然が消滅した自由ではなく、内的同一の啓示である。またそれは印象としての印象の自己反省である。その因果の内面と外面の反省は一つの反省となり、すなわち概念として擁立される。

 

 

14)普遍と個別と特殊、および概念

 

 絶対的実体は、自己を自己自身と区別する。しかしそれは自己を自己自身と対立させない。また自己を無関心で偶然な実体に分散することもない。それは一方で自己同一な受動的実体であり、自己自身が含む擁立された限定存在において自己同一に擁立された全体者、すなわち普遍Allgemeineである。そして他方でそれは自己否定する作用実体であり、限定を否定で限定する自己同一な自己反省としての全体者、すなわち個別Einzelneである。しかし普遍は、限定を廃棄されたものとして自己に含む。したがって普遍もまた、限定を否定で限定する自己同一な自己反省としての全体者、すなわち個別である。その個別と普遍の両者の否定は、同じ無である。また個別は、否定として自己同一な否定である。したがって個別もまた、自己自身が含む擁立された限定存在において自己同一に擁立された全体者、すなわち普遍である。その個別と普遍の両者の同一は、同じ同一である。このような個別と普遍の単純な同一は、擁立された限定存在において自己同一な自己反省、すなわち特殊Besonderheitとして現れる。ただしこれらの区別は、一つの反省としての単純な限定、すなわち概念Begriffから区別されたものである。概念とは、主観または自由の国である。

(2019/11/08)

 

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